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2015年01月

if you never come to me

その店に入ったのは午前を少し回った頃だった。
企画開発会議が終わったのが午後十時過ぎ・・・自分のデスクの上のメモに目を通し、何件かの留守電とメール返信、その後会社を出ればそんな時刻だろう。
明日は(正確に言えば今日)、久しぶりに午後からの出勤が許され、だからこうして寄り道したい気分になったのだ。
そこは初めて入る店だった。
普段はこの店舗が入っているビルの前を通っているのに、気づいたのは今が初めてだ。
僕はこのビルに地下へ続く階段があるなんて知らなかったし、そうした意味では、それだけ気持ちにゆとりができていたのかも知れない。
グレイの階段を下りると重苦しい色のスチールのドアがあった。
横には小さな看板。


“Welcome back !!”


店名なのかコピーなのか分からない。
けれど興味を引いたのは確かだった。
僕はその重苦しいドアを開けて中に入る。
店内はホッとするほど暖かく、思ったよりも空気が綺麗だった。
薄暗い中、カウンター席の一番奥の壁際を陣取る。
ウェイターらしき若い男にスコッチのダブルをオーダーする。
それからじっくりと店内を見渡した。
思った以上に広くはあったが、座席が少なく、奥には小さなステージがあった。
低いそれの中央にはグランドピアノが控えめに置いてある。
程なくすると、素人のコンサートがあると言う。
僕は興味はなかったが、それを聴きながらスコッチを飲んで帰ろうと思った。
気に入らなければ途中で帰ればいい。
グラスのスコッチを飲み干し、おかわりとナッツの皿をオーダーする。
すぐにそれらは目の前に置かれ、手を伸ばすと店内の照明が最小限に絞られた。
一瞬の内に周りは静まり返り、澄んだ空気がステージから流れて来る。
コツコツと革靴の底が鳴る音が鳴り響き、それは中央で止まった。
ピアニストが軽く頭を下げるのが影で分かる。
パラパラと拍手が聞こえると、次に軽快な靴音と共に歌い手が現れたようだった。
彼女(黒のパンツスーツでも華奢な体型が女性と分かる)が正面に立つと同時に照明が上がる。
けれどステージにいる二人の顔が分かる程の明るさには上がらなかった。
次にふっと緊張の糸が張る。
ピアニストが静かに鍵盤で奏で始める。
どこかで聴いたような、懐かしいメロディだ。
優しい音色に目を瞑って耳を傾けているとやがて女の歌声が聴こえる。
ポルトガル語だ。
初めて聴く曲なのに何故か懐かしく感じるのは、僕にとってのボサノヴァの特徴だった。
ブラジル、海、太陽・・・僕は曲に、歌声に引き込まれる。
ポルトガル語は得意ではない。
普段はほとんど使うことがない言葉だけれども、基礎的な知識を使って頭の中で翻訳する。



秋の夕暮れ、浜辺に一人佇む

あれほど華やいだ夏のこの場所は今、まるで遠い昔のように思えるほど静か

オレンジ色の沈みかけた太陽、澄んだ海
寄せては返す波
今までも、これからも変わらない

浜辺にいると子供の頃を思い出す
あの時、海を見ていた気持ちは今も同じ

思い出は、潮が引いた砂に浮き出る貝殻のように、心の片隅に残る
仲間との楽しい時間、切ない恋心、海は全ての想いを浄化してくれるよう

やがて太陽は沈み、月が海をやさしい光で照らすだろう



繰り返す旋律の中で、記憶を呼び起こす。
それは以前、耳に慣れていたはずの声だ。
僕はしっかりと目を見開く。そしてまっすぐに歌い手の女を見つめる。
口許にしか照明は当たっておらず、その顔を確認することができない。
けれどそれは確かに僕の知る友人の声だった。
僕が幼い頃から恋焦がれ、愛し求めていたものだった。
想いを大切にすればするほど離れて行った相手は、今、目の前のステージにいる。

いくつかのボサノヴァを歌い、その度毎に拍手は大きくなる。
けれど僕の頭の中には何も入っては来なかった。
彼女の声、彼女の笑顔。それは僕を、ただ通り過ぎて行くだけだった。
気が付くと、多くの拍手を受けた彼女とピアニストはステージをはけ、同じカウンターの三つ向こうの席に座っていた。
楽しそうに店のマスターと会話し、グラスの中の琥珀色の液体を時々喉に流していた。
近くの彼女の存在に驚きながらも、懐かしい想いで見つめてしまう。
“やあ、久しぶり”と言って肩を叩けば、まるで僕も仲間に入れてしまいそうに思う。
余りにも僕がじっと見つめるものだから、その視線に彼女は気付いてしまった。


「何か用?」
「いえ」


歌い手はにっこり微笑んで僕の隣のスツールに座った。


「初めて見る顔」
「ええ。今夜が、初めてなんです」


彼女は見えれば見るほど僕の友人に似ていた。
柔らかな茶色い髪。シャープな顔立ち。
けれど絞られた照明の下で見る彼女は、目の周りにしっかりとしたメイクをしていて、その素顔を知ることはできない。


「ここはほとんどが常連客なんだ。だからキミが初めての客だって、ステージから見て分かった」


澄んだ大きな瞳から、今度は自分のグラスに視線を移す。
僕を知らない彼女に見つめられるのは、とても耐え難いから。
すぐ視線の先に、何も着けていない彼女の細く長い指先が入って来る。


「キミのグラスはさっきからカラッポ。あたしと同じのでも、いい?」


“うん”と僕は頷く。
すると彼女はその指先を高く掲げ、パチンと指を鳴らした。
一瞬、誰もが(もちろん僕も)その美しい指先に視線を移す。
彼女はそうなることをもちろん知っていて、もう一度僕に向かってにっこりと微笑んだ。
ふっくらとした唇から、歯並びの良い真っ白な歯が零れた。
グラスに注がれたのは同じスコッチウィスキーでも、ブラジル産のライムピールがフレーバーとして使用されているものだった。
炭酸で割るともっと風味が出て飲みやすいかも知れない。
二人でウィスキーを楽しんでいると、親しい空気が流れる。


「一番最初に歌った曲は、何と言うタイトルなんですか?」
「“ON THE BEACHI”」
「“ON THE BEACHI”、素敵な曲ですね。あなたが作ったんですか?」
「ううん。日系のブラジリアンが作った曲」


自分は特にジャンルにこだわるプロの歌手ではなくここの客として遊びに来ていたが、ある日、自分の好きな曲がピアノで演奏された時にステージに立って歌ったらとても評判が良く、それ以来頼まれるようなことがあれば歌うのだと言う。


「それは何と言う曲ですか?」
「“if you never come to me”」
「聞いたことがあるような気がする」
「原題は“useless landscape”」
「“useless・・・”」
「無意味な風景」


彼女は僕にだけ聴こえる音量でハミングする。
やはり聴いたことがある曲、メジャーなジャズのようだ。
またにっこり微笑む。
まるで数年前の学生の頃に戻ったような気持ちになる。
化粧をしてお酒を飲んでいるとは言え、彼女の表情や仕草、口調が僕をその頃に連れ戻す。

似ている。

素顔が見たい。ひょっとしたら、彼女が僕をからかっているのかも知れない。
でも、どんなに会話が進んだとしても、彼女の素顔が見れる訳はない。
だとしたら?
僕はありたっけの記憶を呼び起こす。
そして僕のお気に入りだった彼女のシンボルを思い出した。
もし本人なら、左手の薬指の関節辺りにほくろがあるはず。
顔を近付けないと見つけられない、小さなほくろだ。
まるで指輪みたいだ、とあの頃いつも思っていた。
どんな指輪にも敵わない、世界でたったひとつの素敵なデザインだと思っていた。
そして何時か、その指に僕が送る指輪を重ねたいと願った。


やがて会話が途切れがちになり、そろそろ別れの時間なのだと覚る。
けれど僕は、どうしても彼女が僕の友人なのか確認したかった。


「あなたは、僕のよく知る人に似ているんです」
「そう。恋人?」
「いえ。以前はとても親しく交流していた仲間の一人です」
「今は?」
「仲間達との付き合いも余りなくなりました。
大学を卒業すると共に、友人の両親が経営する会社の海外事業部に所属してしまいましたから」
「今は、会えていない」
「ええ。友人も両親の元で働いているんですがね。すっかり離ればなれになりました。もう何年も会えてないです」


彼女は“ふうん”と言う感じで何度か首を縦に振る。
そして新しいスコッチをオーダーした。


「あたし、よく言われるんだ。誰々に似ているって。でもあたしはその人じゃない。あたしは、あたし。誰でもない」
「すみません。悪い意味ではないんです」


僕は懐かしさに紛れて、歌い手に不快な思いをさせたことを後悔した。


「あたしは、他の誰かの代わりではない」


“あたし、清四郎が想う理想の女になんてなれない”


あの日、悠理はそう言って僕の前を立ち去った。
悠理を想う余り、彼女を束縛し過ぎていたのが誤解の原因だったのかも知れない。
彼女の自由を、言動で奪っていたのだろう。


「分かってる。キミはあたしを口説いてなんていない。
キミのよく知る誰かにあたしが似ている、ただ、それだけ」


もう言葉では、歌い手が悠理であることを確認することはできない。
僕は彼女の後方でピアニストが心配そうにこちらを見ていることに気付く。
時間が、ない。
だから僕は、また自分を失うような焦燥感に駆られる。


「左手を、見せてくれませんか?」


思わず、彼女へ手を差し伸べる。
びっくりしたように目を見開く。瞳の奥で、不安な光が揺れているのが分かる。
彼女は自分の左手を右手で大事そうに胸に抱え込む。



“it may be you will never come
if you never come to me
whats the use of my wonderful dreams
and why would they need me
where would they lead me without you
to nowhere”


キミはもう来ないかもしれない
二度と来ないかもしれない
だとしたら、二人で見た風景に何の意味がある?
キミなしで、何がある?



彼女は僕にだけ聴こえるように歌う。
僕を見つめ、自分の左手を見つめる。
そして・・・ゆっくりと僕へ左手を伸ばした。



グレイの階段で地上へと向かう。
通りの人は少なく、冷たい雨が降り出していた。
僕はタクシーを停めて自宅に向かわせる。
座席に背中を深く沈ませて目を瞑る。
体の小さな震えが、まだ止まらない。
先程までの出来事が現実だったと思うには、まだ時間が足りない。
僕は目を開き、移り行く車窓の風景をじっと目で追う。

愛する人が自分から去ることも、季節により風景が変わることも止められないが、それだけでなく、愛する人の不在が風景の意味までも変えてしまう。

彼女は、そう僕に伝えたかったのだ。
僕はまた目を瞑り額に手を置く。
手にはまだ、細く滑らかな指先の感触が残っている。

彼女は、あの場所で僕を待っていたのだろうか?
僕は、あの場所に引き返すべきなのだろうか?



タクシーを降り立った時にはもう雨は止み、空が白み始めていた。





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