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道化師

それは終点であり、ある意味始点でもあった。

その日僕は、いつもよりずっと早く自宅であるマンションに帰った。
時刻は夕方の六時三十分。
いつもなら、まだ会議や打ち合わせに使う時間。
しかしその日に限って何の予定も無かった。
会議も打ち合わせも接待と称する飲み会も、とにかく何も無かったのである。
だからと言って独り、あるいは仲間達と飲みに行く気分にもなれないので、すぐに自宅に帰った。
マンションに戻ると僕の妻は不在だった。
今は、いつも僕が戻る時刻ではない。
だからまだ買い物や友人と会う等、何等かの理由で戻らないのだ、と思う。
それならば、と僕はベッドルームへ行き、スーツを脱ぎ、きちんとハンガーに掛けしわを伸ばし、
バスローブを引っ掴むとバスルームへ向かった。
ザッとシャワーを浴び、バスローブを羽織るとキッチンへ向かう。

妻はまだ戻っていない。
僕は冷蔵庫を開け缶ビールを出して、プルタブを引くとそのまま飲んだ。
つまみになるような物は何も無かったので、食器棚の隅に置いてある
プレッツェルの入った缶を取り、そのままリビングへ向かった。
薄明かりのリビングでソファに座り、塩のついたプレッツェルを齧ってビールをチビチビ飲む。
テレビをつけても興味を示すような番組はやっていない。
だいたい、この時間のテレビなんて見たことが無い。

七時三十分。
妻からまだ連絡は無い。
いや、僕が帰って来ていることを知らないのだ。
でも・・・僕はちょっと不安になり、携帯電話を取りにベッドルームへ向かった。
スーツの上着の内ポケットにそれは入れたままで、着信は無い。
妻の実家とは違って至極シンプルなベッドルームのダブルベッドの端に座り、僕は妻に電話を入れた。
何回目かのコールで彼女は出た。

「悠理?今何処にいます?」
「清四郎?もしもし清四郎?」
「もしもし悠理?」
「清四郎だろ?おい!もしもーし!あれ?」
「悠理、悠理聞こえますか?」
「おーい。どうしたんだよ、聞こえないぞ」
「悠理。僕の声が届かないのですか?もしもし、もしもし」
「もう!!切るぞ!バカッ!」

彼女はブツンと電話を切った。どうやら電波が悪かったのか、僕の声が届いていない。
僕の方には妻の声が届いているのに。

「バカとは何ですか、バカとは。あなたに言われたくないですよ」

僕はそう言うと携帯電話をベッドの中央に投げ、引っくり返った。
目を瞑ると意識が遠くなった。

重い空気で目を覚ます。

眠っていたんですかね・・・

起き上がるとテーブルランプの仄かな明かりが、不確実な時間の経過を表していた。
口の中には先程飲んだビールの味が残っている。
僕はキッチンへ水を飲みに行こうと思って身体を起こした時、部屋のドアが細く開いた。

「悠理?」

しかし妻の姿は現れない。

ふと目線を下げると道化師がドアの前に立っていた。
道化師は僕の膝まで位の大きさで、その姿は人形の様だった。
顔は醜く、真っ白く顔全体を塗り、目の周りは黒く、右の頬には大きな涙の絵が描かれていた。
鼻も唇も実際のものより異常な程大きく赤く塗りたてている。
頭に三角の赤いとんがり帽を被り、服も靴も真っ赤だった。
僕と目が合うと、道化師はバレエダンサーのように優雅にレヴェランスをすると、プレパラシオンのポーズをとった。
それからクルクルとトゥール・シェネをしながら僕の足元まで来た。
もう一度プレパラシオンをし、ピルエットをトリプルで回ってポーズをとった。
良く見ると、道化師は赤いトゥ・シューズを履いている。

まるでプロのバレエダンサーですな。

僕は暢気に小さい道化師に向かってそう思った。
そして何故僕が、こんなにバレエ用語を知っているのか不思議だった。

「あなたは誰です?」僕は道化師に問う。
「見た通り、道化師さ」と道化師は応える。
「僕に何の用です?」
「用って・・・奥さんの事だよ」
「悠理?悠理がどうしたんです?」

道化師はグラン・ポール・ドゥ・ブラをゆっくりしながら体勢を整えると、第一アラベスクをし、そのままパンシェまで持って行った。
足は百八十度上がっている。
手の指先にまで神経は行っている。
もう一度アラベスクまで足の高さを戻し、心持ち上がっている足を上げると、
第五ポジションに体勢を戻した。

「奥さんは・・・もう駄目なんだ。諦めた方がいい」
「どういう、意味です?」
「意味も何も、駄目なんだって」

道化師はそれだけ言うと、パ・ドゥ・ブーレをしてドアの外に消えた。

もう、駄目?
何ですか?それは・・・

僕は道化師の消えたドアへすばやく近寄り、一呼吸おいてからパッとドアを開けた。
そこに妻が立っていた。

「わっ!何だよ急に!」
「悠理こそ何です。いつからここに?」
「今帰ったんだよ。ブザーを鳴らしたのに出てこないから鍵あけて入ったんだよ。起きているじゃないか」
「ブザー?聞こえませんでしたよ」
「鳴らしたんだ」

妻はむっとしてベッドルームに入った。
彼女から煙草の匂いがした。この匂いは・・・?

「この部屋・・・誰かいた?」
「誰もいませんよ。いるわけがないでしょ?」

僕は慌てた。まさか道化師がいたなんて、言えない。

「あなたこそ何処に行っていたんです?」
「何処って魅録のとこだよ。さっき電話貰った時言おうと思ったけど、お前何も言わないから」
「ちゃんと応えましたよ。電波が悪かったのでしょう。魅録に何の用です?」
「別に・・・清四郎の帰りがいつも遅いから、久しぶりに会いに行っただけ」
「そう、ですか」

僕はまたベッドの端に座った。
妻は以前より少し地味になったデザインの(それでも充分に奇抜な)ジャケットとパンツをスルスル脱いだ。
僕はそれをじっと見ている。
彼女が黒のキャミソールとショーツ姿になった時、僕を真正面から見詰め、その動きを止めた。
学生の頃と変わらぬスラリとした身体。括れた腰。細長い手足。

「飯、食った?」
「いいえ、まだです」
「何か買って来ようか?それとも何か取る?」
「自分で何とかします」

妻はふうん、と言うと僕に背を向け、薄手のトレーナーとブルージーンズを身に付けた。

「あなたは?食事は?」
「魅録のとこで食べた」

そして、シャワーを浴びて来ると言って部屋を出た。
僕も着替え、キッチンでレタスとキュウリとハムのサンドウィッチを作り、皿に盛った。
厚く切ったチーズとピクルスを添える。
妻と二人でビールを飲みながらそれらを食べた。
魅録との事は聞けなかった。

その夜はいつもと変わらなかった。
妻は僕の肉体の一部を奥深く受け入れ、気持ち良さそうに喘ぎ、一緒に絶頂を超えた。
僕の胸に顔を埋め、背に腕さえ回しぐっすりと眠っていた。
何一つ、いつもと変わらない。

奥さんはもう駄目なんだ。

道化師の無表情な顔。
あれは夢だったんだ。
道化師だなんて、現実でもない。
疲れていたんだ。


翌日マンションに着いたのは夜の十時三十分だった。
ブザーを鳴らしても妻は出て来ない。
鍵を開け中に入ると、フットランプの仄かな明かりだけがある。

「悠理?」

何度か妻の名前を読んだが出て来ない。
バスルームで手を洗い、ベッドルームへ向かったが、それでも彼女は出て来なかった。
携帯電話を見ても、着信は無い。
着替えてリビングやキッチンへ行っても、テーブルの上に置き手紙なんてもちろん無かった。
不精な妻がそんな事する訳が無いのだ。
ベッドルームへ戻り、電話を入れる。

「・・・電波の届かない所におられるか、電源が入っていないため・・・」

と機械音のようなアナウンスが応えるばかり。
剣菱邸に電話を入れようと思ったが、止めた。
きっとそんな大袈裟な事ではない。
また魅録の所か、野梨子、可憐と会っているに違いない。
僕はシャワーを浴びようともう一度バスルームへ向かおうとした時、

「言っただろう?奥さんはもう駄目なんだって」

ベッドの横に昨夜の道化師が第一ポジションで立っていた。

「また、あなたですか」

道化師はゆっくりプレパラシオンに体勢を整えるとフェッテでクルクル回り始めた。

プリスカ・パブロアだな、と僕は思った。

プリスカのリハーサルも公演もまともに見ていなかったのに、何故こんなにバレエ用語が頭に入っているのだろう・・・
道化師は彼女のようにトリプルでフェッテを三十二回転し、崩れる事無くポーズをとった。

「一体何が駄目なんです?僕達はうまく行ってますよ?愛し合っています。僕は今の生活に満足していますし、妻だって・・・」
「奥さんは満足してないよ。この生活にも、あんたにも」

道化師は相変らず無表情だ。

「そんな事はありません」
「あんたは何も分っちゃいないな。だから駄目なんだって」

道化師は壁に手を置きながらバーで行うレッスンを始めた。
第一ポジションから第五ポジションまでの過程をゆっくり丁寧に、そして確実にこなして行った。
手の動き、足の動き、身体の動き、全て正確だ。
身体の隅々まで神経が行き届いている。
僕はじっと道化師を見ていた。

「毎日八時間は踊るんだ」と道化師。
「そうじゃないとすぐに主役の座は取られてしまう。そしてすぐに忘れられてしまう。
あんたの奥さんも、忘れられていると思っているんだよ」
「何を言っているんです?」
「奥さんは忙しさの余り、構ってくれない旦那に対し寂しさと悲しさと虚しさを感じ、心を蝕まれているんだ。
でも、うっとうしさや憎しみも感じ始めているよ。毎晩義務的に抱かれる事に、ね」
「義務だなんて。愛情からですよ。僕は心から彼女を愛し」
「伝わっていないんだよ!奥さんにはあんたの気持ちが。いつもすまして感情を出さないあんたからじゃ」

道化師はバーレッスンを終え、今度はピルエットのアン・ドゥオールとアン・ドゥダンの練習を始めた。

「私を抱いたら、奥さんを家に帰してあげよう。奥さんを抱くように私を抱いてくれたら、返そう、彼女の心も身体も」
「何、言っているんです?そんな事できる訳、ありません」
「出来ないのかい?ならやはり、駄目だ」
「あなたを抱くなんて、出来る訳ないでしょう?」
「奥さんは帰らないよ、もう。私を抱かないのなら、奥さんはずっと遠くへ行ってしまうんだ。あんたが行けない遠い場所。
あんたが知らない遠い世界。でも彼女にとってそこは桃源郷さ。苦しんでいたからな。もう苦しみたくないんだ、あんたのせいで」
「止めろ!」
「さあ、どうする?私を抱けば奥さんは戻って来るよ。抱かないのなら、もう二度と会えない。昨夜が最後の抱擁だったんだ」

道化師は、そこで初めてニヤリと笑った。

僕は道化師に近付き触れると、彼女は、彼女(それは女の肉体を持っていたのだ!)は僕の妻と同じ位の背丈になり、
髪の長い美しい女に変わった。
僕の親友達とは別の意味で美しかった。
絵に描いたような美しさ、実存しない類の美しさだった。
僕は目を瞑り抱き寄せて、唇を彼女のそれに押し当てた。
それからベッドに乱暴に押し倒した。
唇からこめかみへ、そして首筋から胸元へ愛撫を重ねる。
女はその肉体から芳香を放ち、僕が与える快感に喘いだ。
しなやかな腕を僕の背中に回し、そこで彷徨っている。
僕は夢中になって女の甘い唇を味わった。

清四郎・・・清四郎・・・

どこかで妻の声がする。
一瞬失いかけた意識と理性が僕に戻ってきた。
それを感じとったのか、女は信じられない力で僕の背を締め付け始めた。
僕は目を見開いた。

「止めろ!放せ!僕はあなたを抱けない!僕は悠理以外抱きたくなんて無い!!」

女は更なる力で僕を締め付け、唇を深く押し当ててきた。
先程まで柔らかく甘かった唇はヌメヌメとした感触になり、口の中にドロドロとした液体が流れ込んだ。
外国製の強い化粧品の匂いと、その味がした。
僕は女を思い切り突き放し、口を拭った。
彼女は俯いて、ふふふ、と笑う。その姿は醜い道化師そのものだった。
僕の手には道化師の化粧がドロドロに附着していた。
道化師の顔は化粧が崩れ、顔の構造も全て一緒くたにグチャグチャになっていて、それはすでに顔ではなかった。

「今回は私の負けだ。奥さんを家に帰してあげよう。私は現れない。
でも、お前が又奥さんの心を蝕むようなら、私は必ず現れる」

道化師は五番ドゥミ・プリエからジャンプしてクルクル激しく回ると、光を放ち、消えた。


「清四郎、清四郎」

僕は激しく肩を揺さぶられて目を覚ます。

「ん・・・悠理?」
「どうしたんだよ、清四郎。帰って来たらお前、ここで魘されてたよ」

妻は心配そうに僕を見下ろしていた。

「・・・夢を、見ていただけです・・・」

そう、とても悪い夢。僕の身体はべっとりとした嫌な汗をかいていた。

「良かったぁ。大丈夫なんだ。お前、病気かと思っちゃった!」

妻は僕に抱きつき耳元に口付けた。
僕は優しく彼女を抱き、その温もりを確かめ、これが現実である事を覚った。

「悠理・・・何処に行っていたんです?」

僕はさっきの出来事が夢であるか、一応確かめる。
妻は僕が言っている事を理解出来ていないのか、眉間に皺を寄せ、首を僅かに傾げた。
そして僕の問いを無視するように顔を背けた。

「そう言えばさっき、うちのドアの前で妙に小さいピエロとすれ違っちゃった。誰だろ?あれ?」


僕の平穏だった生活は終わった。
それは悪夢の続きであり、道化師に監視される地獄の日々の始まりであった。
僕の意識は次第にフェイドアウトした。





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